長篠古戦場 [歴史雑話]
長篠合戦は武田軍の敗北でしたので、武田軍の将士の墓が多くあります。
原隼人佐昌胤の墓です。
岡部竹雲斎と岩手左馬之助の墓です。
信玄塚の近くにあります。
武田軍の将士で馬防柵の近くで戦死したのは土屋昌次が有名ですが、多くの将士は馬防柵から離れたところで戦死しています。
武田軍は無謀にも鉄砲に馬で突っ込んでいって敗北したと思われていますが、武田氏は鉄砲も備えていてその威力もよく知っていました。
実際には矢弾を防ぐ措置をして戦っていたようです。
また当時の鉄砲は命中率は悪く、バッタバッタとなぎ倒されたのではなかったようです。
それは武田軍の墓の位置でもわかります。
実際の戦死者は武田氏が退却する際の追撃戦で多く出ています。
織田徳川軍は3万8千人、武田軍はその半分以下の1万5千人と言われます。
これだけの兵力差がありながら織田軍は6千人もの戦死者があったとも言われます。
追撃戦で武田軍は大きな被害を出しましたが、織田軍もそれなりの代償を支払っているようです。
つまりは武田軍は兵力差からみてもかなり強かったようです。
首荒い池です。
信玄塚の近くにあります。
合戦の際に戦死者の首を洗ったと伝えられます。
現在の首荒い池です。
回りは随分と開削されて明るい雰囲気になっています。
山縣甚太郎昌次、山縣三郎兵衛昌景、名取又左衛門道忠、高坂又八郎宣之の墓です。
山縣昌景は武田四天王の一人、9度に及ぶ馬防柵への突撃で戦死、家来の志村又右衛門が首級を持って戦場を去りました。
山縣の赤備えは勇猛果敢な隊として恐れられ、後に井伊直政に引き継がれました。
山縣らの墓です。
向こうの山が織田軍の陣をひいた丘陵です。
その近さと狭さに驚きです。
原隼人佐昌胤の墓です。
岡部竹雲斎と岩手左馬之助の墓です。
信玄塚の近くにあります。
武田軍の将士で馬防柵の近くで戦死したのは土屋昌次が有名ですが、多くの将士は馬防柵から離れたところで戦死しています。
武田軍は無謀にも鉄砲に馬で突っ込んでいって敗北したと思われていますが、武田氏は鉄砲も備えていてその威力もよく知っていました。
実際には矢弾を防ぐ措置をして戦っていたようです。
また当時の鉄砲は命中率は悪く、バッタバッタとなぎ倒されたのではなかったようです。
それは武田軍の墓の位置でもわかります。
実際の戦死者は武田氏が退却する際の追撃戦で多く出ています。
織田徳川軍は3万8千人、武田軍はその半分以下の1万5千人と言われます。
これだけの兵力差がありながら織田軍は6千人もの戦死者があったとも言われます。
追撃戦で武田軍は大きな被害を出しましたが、織田軍もそれなりの代償を支払っているようです。
つまりは武田軍は兵力差からみてもかなり強かったようです。
首荒い池です。
信玄塚の近くにあります。
合戦の際に戦死者の首を洗ったと伝えられます。
現在の首荒い池です。
回りは随分と開削されて明るい雰囲気になっています。
山縣甚太郎昌次、山縣三郎兵衛昌景、名取又左衛門道忠、高坂又八郎宣之の墓です。
山縣昌景は武田四天王の一人、9度に及ぶ馬防柵への突撃で戦死、家来の志村又右衛門が首級を持って戦場を去りました。
山縣の赤備えは勇猛果敢な隊として恐れられ、後に井伊直政に引き継がれました。
山縣らの墓です。
向こうの山が織田軍の陣をひいた丘陵です。
その近さと狭さに驚きです。
2018-07-25 21:13
nice!(43)
コメント(2)
首荒い?首洗い、でわかりました。
by 夏炉冬扇 (2018-07-26 18:18)
洗いです。
by ねじまき鳥 (2018-07-30 08:09)