小牧陣屋@西尾市吉良町 [お城踏査]
小牧陣屋は西尾市吉良町小牧にあった陣屋です。
集落の片隅に小さな公園がありますが、ここが陣屋跡です。
実際には陣屋の隅にあたります。
説明です。
小牧陣屋は永禄4年(1561)に徳川家康が東条城を攻めるために築いた小牧砦の跡に建てられました。
上総国大多喜城主の大河内松平氏が元禄16年(1703)に建てました。
大多喜藩は2万7500石でしたが、この小牧陣屋は1万3000石を管理していました。
小牧陣屋の平面図です。
規模の大きな陣屋でした。
表門の前の馬場です。
今でもここだけは道幅が広くなっています。
表門の跡です。
面影はありません。
集落の片隅に小さな公園がありますが、ここが陣屋跡です。
実際には陣屋の隅にあたります。
説明です。
小牧陣屋は永禄4年(1561)に徳川家康が東条城を攻めるために築いた小牧砦の跡に建てられました。
上総国大多喜城主の大河内松平氏が元禄16年(1703)に建てました。
大多喜藩は2万7500石でしたが、この小牧陣屋は1万3000石を管理していました。
小牧陣屋の平面図です。
規模の大きな陣屋でした。
表門の前の馬場です。
今でもここだけは道幅が広くなっています。
表門の跡です。
面影はありません。
岡崎城 [お城踏査]
名古屋城夏まつり [お城踏査]
名古屋城現存三櫓特別公開 その2 [お城踏査]
名古屋城東南隅櫓です。
本丸の東南隅にある櫓です。
二重三階櫓です。
普段は窓が閉まっているので、開いた状態の写真は珍しいです。
東南隅櫓の公開は数年に一度くらいあります。
現存する、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓の同時公開は珍しいというのか、初めてです。
名古屋城夏祭りのイベントの一つです。
というよりも天守が木造再建のため登閣できないための代わりのイベントでもあります。
でももう少し涼しい時期に開催してほしかった。
入口です。
長蛇の列ができていました。
珍しいこともありますが、原因はこれです。
消防法の関係で一度に9人しか登れないための人数制限です。
30分くらい待ちました。
この日も名古屋は38度の灼熱地獄。
待っているだけで汗が出ます。
木造三階以上の建物は9人までしか登れません。
スリッパが人数分しかなくて、それがないと入れません。
でも犬山城や姫路城はそんな制限はなかったけど、逆に大丈夫なのでしょうか。
姫路城で9人なんて制限したら大混雑になるのは目に見えています。
一階です。
戸です。
東南隅櫓は現在は独立した櫓ですが、かつては多聞櫓で結ばれていました。
その名残の戸です。
将来本丸の多聞櫓が再建されれば使われるでしょう。
二階の石落としです。
櫓から見た御殿と天守です。
この景色を見たくて来ました。
樹が邪魔で少し見にくかったけど、このアングルは櫓からしか見れません。
本丸の東南隅にある櫓です。
二重三階櫓です。
普段は窓が閉まっているので、開いた状態の写真は珍しいです。
東南隅櫓の公開は数年に一度くらいあります。
現存する、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓の同時公開は珍しいというのか、初めてです。
名古屋城夏祭りのイベントの一つです。
というよりも天守が木造再建のため登閣できないための代わりのイベントでもあります。
でももう少し涼しい時期に開催してほしかった。
入口です。
長蛇の列ができていました。
珍しいこともありますが、原因はこれです。
消防法の関係で一度に9人しか登れないための人数制限です。
30分くらい待ちました。
この日も名古屋は38度の灼熱地獄。
待っているだけで汗が出ます。
木造三階以上の建物は9人までしか登れません。
スリッパが人数分しかなくて、それがないと入れません。
でも犬山城や姫路城はそんな制限はなかったけど、逆に大丈夫なのでしょうか。
姫路城で9人なんて制限したら大混雑になるのは目に見えています。
一階です。
戸です。
東南隅櫓は現在は独立した櫓ですが、かつては多聞櫓で結ばれていました。
その名残の戸です。
将来本丸の多聞櫓が再建されれば使われるでしょう。
二階の石落としです。
櫓から見た御殿と天守です。
この景色を見たくて来ました。
樹が邪魔で少し見にくかったけど、このアングルは櫓からしか見れません。
名古屋城三櫓特別公開 [お城踏査]
名古屋城夏祭り期間に現存三櫓を特別公開しています。
西南隅櫓です。
本丸の西南隅にある櫓です。
窓を開くとイメージが変わります。
別のアングルです。
西南隅櫓の入り口です。
一階です。
櫓には珍しく障子がはめられています。
二階です。
石落としです。
ここから石垣を登る敵を石や鉄砲で攻撃します。
西南隅櫓は濃尾地震で石垣ともども倒壊してしまいました。
倒壊した写真です。
その後元の部材を利用して再建されました。
その後離宮となり宮内庁の管轄となったので瓦に菊の御紋が入っています。
三階です。
窓が開けられて明るいです。
櫓には珍しく釘隠しがあります。
これも宮内庁の管轄のためでしょうか。
天井も張られています。
通常は櫓には天井は張りません。
西南隅櫓は少し離れた位置にあるので人も少なかったです。
(続く)
西南隅櫓です。
本丸の西南隅にある櫓です。
窓を開くとイメージが変わります。
別のアングルです。
西南隅櫓の入り口です。
一階です。
櫓には珍しく障子がはめられています。
二階です。
石落としです。
ここから石垣を登る敵を石や鉄砲で攻撃します。
西南隅櫓は濃尾地震で石垣ともども倒壊してしまいました。
倒壊した写真です。
その後元の部材を利用して再建されました。
その後離宮となり宮内庁の管轄となったので瓦に菊の御紋が入っています。
三階です。
窓が開けられて明るいです。
櫓には珍しく釘隠しがあります。
これも宮内庁の管轄のためでしょうか。
天井も張られています。
通常は櫓には天井は張りません。
西南隅櫓は少し離れた位置にあるので人も少なかったです。
(続く)
山中城@愛知県岡崎市 [お城踏査]
山中城は愛知県岡崎市羽栗町にあった中世城郭です。
山中城の入り口です。
主郭です。
山中城は標高200mの城山にある山城です。
三河地区では最大級の大きさです。
山頂にある説明板です。
築城は西郷氏と言われます。
伝承によると大永4年(1524)に松平清康(徳川家康の祖父)が奇襲により攻め取りました。
天文17年(1548)には小豆坂合戦の際には今川氏の拠点となりました。
今川氏の文書には「医王山」の名で登場します。
永禄3年(1560)には家康の城となりました。
山中城の縄張り図です。
図を見ても大きな城であったことがわかります。
山頂には主郭と二の曲輪を中心に尾根に曲輪を伸ばしています。
さらに東曲輪から二方に伸びる尾根にも曲輪を配しています。
主郭にある石碑です。
古さを感じる石碑です。
子爵大久保忠言の筆です。
大久保氏は松平清康の山中城攻めの際軍功がありました。
堀切です。
説明板が多く設置されていてわかりやすいです。
東曲輪です。
きれいに草が刈られて整備されています。
馬出とされる曲輪です。
実際には馬出的な機能を持つ曲輪です。
山中城は見ごたえがあります。
山中城の入り口です。
主郭です。
山中城は標高200mの城山にある山城です。
三河地区では最大級の大きさです。
山頂にある説明板です。
築城は西郷氏と言われます。
伝承によると大永4年(1524)に松平清康(徳川家康の祖父)が奇襲により攻め取りました。
天文17年(1548)には小豆坂合戦の際には今川氏の拠点となりました。
今川氏の文書には「医王山」の名で登場します。
永禄3年(1560)には家康の城となりました。
山中城の縄張り図です。
図を見ても大きな城であったことがわかります。
山頂には主郭と二の曲輪を中心に尾根に曲輪を伸ばしています。
さらに東曲輪から二方に伸びる尾根にも曲輪を配しています。
主郭にある石碑です。
古さを感じる石碑です。
子爵大久保忠言の筆です。
大久保氏は松平清康の山中城攻めの際軍功がありました。
堀切です。
説明板が多く設置されていてわかりやすいです。
東曲輪です。
きれいに草が刈られて整備されています。
馬出とされる曲輪です。
実際には馬出的な機能を持つ曲輪です。
山中城は見ごたえがあります。