武田信玄の墓所 [寺院]
武田信玄の墓所です。
甲府市岩窪にあります。
武田信玄は天正元年に死去するときに三年間喪を伏せろと遺言しました。
跡を継いだ勝頼は三年後に土屋昌次の屋敷で荼毘に付し恵林寺に埋葬しました。
この場所は後世は魔縁塚と呼び里人は恐れて近づきませんでした。
江戸時代の安永8年(1779)に甲府代官が石棺を見つけて幕府に届けました。
石棺には「法性院機山信玄大居士 天正元年四月一二日薨」と書かれていました。
甲府市岩窪にあります。
武田信玄は天正元年に死去するときに三年間喪を伏せろと遺言しました。
跡を継いだ勝頼は三年後に土屋昌次の屋敷で荼毘に付し恵林寺に埋葬しました。
この場所は後世は魔縁塚と呼び里人は恐れて近づきませんでした。
江戸時代の安永8年(1779)に甲府代官が石棺を見つけて幕府に届けました。
石棺には「法性院機山信玄大居士 天正元年四月一二日薨」と書かれていました。
円光院 [寺院]
円光院は甲府市にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
武田信玄の祖逸見太郎清光が創建しました。
円光院には武田信玄の正室三条氏の墓があります。
三条氏は大永元年(1521)生まれ。
公家の三条公頼の次女でした。
天文5年16歳の時に武田信玄の妻となりました。
義信を始め三人の子を産みましたが、次男信親は盲人、三男三郎は早世しました。
義信は今川義元の娘を妻に迎えたので、桶狭間合戦で今川氏が衰えると父信玄と対立して自害します。
三条夫人は公家の娘のためか小説などではあまり良く書かれないこともありました。
快川和尚の詞には 西方一美人 円光如日 和気似春 と書かれています。
暖かく穏やかな人柄だったようです。
武田信玄の祖逸見太郎清光が創建しました。
円光院には武田信玄の正室三条氏の墓があります。
三条氏は大永元年(1521)生まれ。
公家の三条公頼の次女でした。
天文5年16歳の時に武田信玄の妻となりました。
義信を始め三人の子を産みましたが、次男信親は盲人、三男三郎は早世しました。
義信は今川義元の娘を妻に迎えたので、桶狭間合戦で今川氏が衰えると父信玄と対立して自害します。
三条夫人は公家の娘のためか小説などではあまり良く書かれないこともありました。
快川和尚の詞には 西方一美人 円光如日 和気似春 と書かれています。
暖かく穏やかな人柄だったようです。
猪子石城@愛知県名古屋市 [お城踏査]
猪子石神社 [神社]
猪子石神明神社は名古屋市名東区神月町にあります。
引山のバス停から歩いて5分です。
亥年の今年は初詣の参拝が多くありました。
猪子石神社は正和年間(1300)以前に創建されました。
猪年の幟が作られていました。
今年だけでしょうか。
拝殿です。
祭神は天照大神、豊受大神、日本武尊です。
巨大絵馬です。
今年のために作られたのでしょうか。
猪の絵馬です。
猪の顔が書けるようになっています。
境内にある龍耳社です。
耳の神様です。
明治時代に碧南市の弁天池で耳のある8尺の蛇が捕まりました。
名古屋市守山区の畑一衛門がこの蛇を御神体として祀り、昭和初期にこの猪子石神社の末社として祀りました。
龍耳社の絵馬です。
猪子石神社の近くには大石神社、牝石(猪子石)、牡石など猪に関連する神社があります。
引山のバス停から歩いて5分です。
亥年の今年は初詣の参拝が多くありました。
猪子石神社は正和年間(1300)以前に創建されました。
猪年の幟が作られていました。
今年だけでしょうか。
拝殿です。
祭神は天照大神、豊受大神、日本武尊です。
巨大絵馬です。
今年のために作られたのでしょうか。
猪の絵馬です。
猪の顔が書けるようになっています。
境内にある龍耳社です。
耳の神様です。
明治時代に碧南市の弁天池で耳のある8尺の蛇が捕まりました。
名古屋市守山区の畑一衛門がこの蛇を御神体として祀り、昭和初期にこの猪子石神社の末社として祀りました。
龍耳社の絵馬です。
猪子石神社の近くには大石神社、牝石(猪子石)、牡石など猪に関連する神社があります。
名古屋城天守木造復元の現況 [名古屋城天守木造復元]
武田氏館 その4 [お城踏査]
武田氏館の続きです。
主郭の東虎口の前に築かれていたかざし石塁です。
復元整備されたものです。
これは武田氏滅亡後に築かれたものですが、発掘調査をしたらその下から丸馬出が見つかりました。
丸馬出は武田氏の築城術の代表的なものですが、なぜか武田氏の本国の甲斐では少なくて、武田氏館で使われていなかったのが謎でした。
しかし、発掘調査で丸馬出が確認されたことは大きいです。
土橋の前に作られた様子がわかります。
複雑な構造になっていました。
武田氏館の全体図です。
右の四角で囲った部分が今回の部分です。
丸馬出の部分の説明です。
現況の部分です。
丸馬出は復元されていません。
復元された土塁です。
復元された堀と土塁です。
主郭の東部分の曲輪は復元整備されて見どころ満載ですが、観光客の人は武田神社だけを見てこちらまで来る人は少ないようです。
(終わり)
主郭の東虎口の前に築かれていたかざし石塁です。
復元整備されたものです。
これは武田氏滅亡後に築かれたものですが、発掘調査をしたらその下から丸馬出が見つかりました。
丸馬出は武田氏の築城術の代表的なものですが、なぜか武田氏の本国の甲斐では少なくて、武田氏館で使われていなかったのが謎でした。
しかし、発掘調査で丸馬出が確認されたことは大きいです。
土橋の前に作られた様子がわかります。
複雑な構造になっていました。
武田氏館の全体図です。
右の四角で囲った部分が今回の部分です。
丸馬出の部分の説明です。
現況の部分です。
丸馬出は復元されていません。
復元された土塁です。
復元された堀と土塁です。
主郭の東部分の曲輪は復元整備されて見どころ満載ですが、観光客の人は武田神社だけを見てこちらまで来る人は少ないようです。
(終わり)