日野宿本陣 [歴史雑話]

日野宿本陣は東京都日野市にありました。

日野市指定有形文化財です。

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玄関です。

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玄関の千鳥破風です。

龍が彫られています。

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内部です。

新選組の衣装が着れるようになっています。

さすが多摩地方です。

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新選組と日野宿本陣です。

イケメン揃いですね。

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ウサギの釘隠しです。

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馬乗2号墳 [歴史雑話]

愛知県蒲郡市の蒲郡博物館に移築されている馬乗2号墳です。

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もともとは蒲郡市の愛知工科大学のある山にありましたが、大学建設のために昭和61年にここに移築されました。

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説明です。

馬乗2号墳は愛知では珍しい方墳で、外に石が並べてあり、その周りを広い溝が囲んでいました。

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周囲の石列です。

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石室です。

中に入れます。

玄室からは土器や太刀、銀の耳飾り、空玉が出土しました。

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玄室です。


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今川義元の胴塚 [歴史雑話]

今川義元の胴塚が愛知県豊川市にあります。

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大聖寺にあります。

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これが胴塚です。

宝篋印塔などを組み合わせた不思議な形をしています。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦で討ち死にした今川義元ですが、首塚は愛知県西尾市の東向寺にありますが、胴塚は豊川市にあります。

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首を取られた義元の胴体を家臣が背負ってここまで逃れて、この寺に葬り、石の手水鉢を載せて墓石の代わりにしました。

跡を継いだ今川氏真は永禄6年に義元の三回忌をこの寺で営み、位牌所として寺領を安堵しました。

ちなみに今年は今川義元生誕500年です。

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源頼政の墓 [歴史雑話]

平等院にある源頼政の墓です。

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源頼政は保元平治の乱で武功をあげて源氏としては初めて従三位に叙されました。

歌人としても名高く、勅撰集に和歌を多く残しています。

治承4年(1180)平家追討の兵をあげましたが、宇治川で平知盛に敗れ平等院境内で自刃しました。

辞世

埋もれ木の花咲くこともなかりしに

身のなる果てぞ悲しかりける

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十三重の石塔 [歴史雑話]

宇治川の中島にある十三重の石塔です。

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高さ15m、日本最大最古の石塔です。

鎌倉時代の弘安7年(1284)、奈良西大寺の高僧の叡尊によって建てられました。

宇治川の度重なる流失は魚の霊のたたりと考えて供養のため建てられました。

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宇治川には橘島と塔の島と二つの中島があります。

宇治平等院のすぐ前であり水辺として親しまれています。
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明智塚 [歴史雑話]

天正10年6月2日に本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀は山崎合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走する途中の6月Ⅰ3日にこの付近で農民に襲われて重傷を負い自刃しました。

信長を倒してからわずかの間に敗北したために三日天下と呼ばれています。

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京都市山科区の勧修寺の南に明智塚と場所があります。

看板もなくわかりにくいですが、来年の大河ドラマは明智光秀が主役の麒麟がきたなので、来年は賑わうのではないでしょうか。

山科区勧修寺御所内町にあります。

ここは明智光秀の胴が埋められたとも言われています。

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明智光秀之塚と刻まれています。

昭和45年に建てられました。

近くの小栗栖には光秀が襲われた明智藪が残っています。

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武蔵府中熊野神社古墳 [歴史雑話]

東京都府中市にある熊野神社古墳です。

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飛鳥時代の上円下方墳です。

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上が円形で下が四角です。

上円部の直径は16m、下方部は一辺が32mの規模です。

復元整備されているのでとてもきれいです。

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鳥瞰図です。

石室は横穴式石室です。

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石室は塞がれていて入れません。

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その代わり隣接する資料館に石室復元展示室があり、中を見学できます。

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内部の様子です。

前室、後室、玄室となっています。

府中には古墳が多く、古代から栄えていたことがわかります。

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永井直勝生誕地 [歴史雑話]

永井直勝生誕地です。

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永井直勝は戦国時代の武将で安城市の東端城主です。

江戸時代には古賀城主を務めました。

碧南市の宝珠寺に建てられています。

宝珠寺は東端城からは少し離れています。

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本堂です。

本堂の前に石碑が建てられています。

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旧糟谷邸 [歴史雑話]

小牧陣屋の門が移築されている西尾市の旧糟谷邸です。 IMG_3567.JPG 江戸時代の豪農・豪商である糟谷縫右衛門家の屋敷です。 糟谷氏は、福岡県糟谷郡の出身で、吉良氏に仕えていましたが、永正年間に帰農しました。 IMG_3571.JPG 内部です。 店の部分です。 部屋が続きます。 建物内は公開しています。 IMG_3573.JPG 台所です。 井戸です。 IMG_3574.JPG 座敷です。 IMG_3576.JPG 茶室です。 茶道久田流の久田栄甫設計による建物です。 IMG_3578.JPG 倉です。 今は2棟残されています。 IMG_3579.JPG 平面図です。 現在は約4500㎡の広大な敷地内に木造二階建主屋、長屋門、土蔵、屋敷神祠の計5棟が立ち並んでいます。 糟谷家は江戸時代は大地主でした。 また、三河木綿の江戸送り総問屋として栄えました。 また、大多喜藩の小牧陣屋の御用達頭取として名字帯刀を許されていました。
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長篠古戦場 [歴史雑話]

長篠合戦は武田軍の敗北でしたので、武田軍の将士の墓が多くあります。

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原隼人佐昌胤の墓です。

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岡部竹雲斎と岩手左馬之助の墓です。

信玄塚の近くにあります。

武田軍の将士で馬防柵の近くで戦死したのは土屋昌次が有名ですが、多くの将士は馬防柵から離れたところで戦死しています。

武田軍は無謀にも鉄砲に馬で突っ込んでいって敗北したと思われていますが、武田氏は鉄砲も備えていてその威力もよく知っていました。

実際には矢弾を防ぐ措置をして戦っていたようです。

また当時の鉄砲は命中率は悪く、バッタバッタとなぎ倒されたのではなかったようです。

それは武田軍の墓の位置でもわかります。

実際の戦死者は武田氏が退却する際の追撃戦で多く出ています。

織田徳川軍は3万8千人、武田軍はその半分以下の1万5千人と言われます。

これだけの兵力差がありながら織田軍は6千人もの戦死者があったとも言われます。

追撃戦で武田軍は大きな被害を出しましたが、織田軍もそれなりの代償を支払っているようです。

つまりは武田軍は兵力差からみてもかなり強かったようです。

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首荒い池です。

信玄塚の近くにあります。

合戦の際に戦死者の首を洗ったと伝えられます。

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現在の首荒い池です。

回りは随分と開削されて明るい雰囲気になっています。

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山縣甚太郎昌次、山縣三郎兵衛昌景、名取又左衛門道忠、高坂又八郎宣之の墓です。

山縣昌景は武田四天王の一人、9度に及ぶ馬防柵への突撃で戦死、家来の志村又右衛門が首級を持って戦場を去りました。

山縣の赤備えは勇猛果敢な隊として恐れられ、後に井伊直政に引き継がれました。

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山縣らの墓です。

向こうの山が織田軍の陣をひいた丘陵です。

その近さと狭さに驚きです。
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