水口城の天守? [お城踏査]
滋賀県甲賀市の水口城の天守です。
とは言っても、実物大のバルーン天守です。
水口城は二つあり、織豊期の山城、水口岡山城と江戸時代の平城の水口城です。
水口岡山城は天守がありましたが、形は不明です。
天守復元を望む声があり、山上に一時的なバルーンの天守があげられました。
今でもイベントの際には膨らませています。
実際に天守を復元するのはかなりハードルが高いですが、こういう形ならいいですね。
とは言っても、実物大のバルーン天守です。
水口城は二つあり、織豊期の山城、水口岡山城と江戸時代の平城の水口城です。
水口岡山城は天守がありましたが、形は不明です。
天守復元を望む声があり、山上に一時的なバルーンの天守があげられました。
今でもイベントの際には膨らませています。
実際に天守を復元するのはかなりハードルが高いですが、こういう形ならいいですね。
水口城の御殿の玄関 [移築城門]
五十鈴神社 [神社]
水口教会会堂 [歴史雑話]
水口城下町 [歴史雑話]
水口城 その4 [お城踏査]
水口城の続きです。
資料館内にある水口城絵図です。
本丸に四方に二重櫓が描かれます。
北の枡形虎口には2つの二重櫓がある厳重な構えでした。
本来は桝形のほうが正式な入り口で、出桝形のほうは橋がなく予備的な虎口の扱いだったのでしょうか。
凸形の縄張りは加納城にもみられる様式で徳川氏の築城術の特徴のひとつです。
もう一種類の絵図には四隅は一重櫓が描かれています。
水口城の模型です。
現在復元されている部分です。
枡形部分は櫓はなく、本丸の入り口には渡り櫓がありました。
同じく模型です。
本丸の枡形です。
こちらは内桝形で、もう片方の外桝形と機能分担しています。
出桝形から本丸への虎口です。
櫓門風に出来ていますが、実際はトイレです。
枡形内の土塀の内側です。
控え柱があります。
水口城付近の地図です。
本丸の周囲が残っている様子がわかります。
(終わり)
資料館内にある水口城絵図です。
本丸に四方に二重櫓が描かれます。
北の枡形虎口には2つの二重櫓がある厳重な構えでした。
本来は桝形のほうが正式な入り口で、出桝形のほうは橋がなく予備的な虎口の扱いだったのでしょうか。
凸形の縄張りは加納城にもみられる様式で徳川氏の築城術の特徴のひとつです。
もう一種類の絵図には四隅は一重櫓が描かれています。
水口城の模型です。
現在復元されている部分です。
枡形部分は櫓はなく、本丸の入り口には渡り櫓がありました。
同じく模型です。
本丸の枡形です。
こちらは内桝形で、もう片方の外桝形と機能分担しています。
出桝形から本丸への虎口です。
櫓門風に出来ていますが、実際はトイレです。
枡形内の土塀の内側です。
控え柱があります。
水口城付近の地図です。
本丸の周囲が残っている様子がわかります。
(終わり)
水口城 その3 [お城踏査]
水口城 その2 [お城踏査]
水口城@滋賀県甲賀市水口町 [お城踏査]
水口城@滋賀県甲賀市水口町にあった近世城郭です。
隅櫓風の建物ですが、中は資料館です。
実際にはこの位置には櫓はありませんでした。
説明です。
水口城は、徳川家光が寛永11年(1634)に上洛の際の宿泊城として、築城しました。
実際に使われたのは一回のみでした。
その後は幕府の管理する「番城」となりました。
天和2年(1682)に加藤明友が2万石で入り、水口藩となりました。
その後一時鳥居氏が入りましたが、再び加藤氏が入り幕末を迎えました。
隅櫓は平成3年に建てられました。
市内の民家に移築されていた本丸乾矢倉を移築したそうです。
もともとは単層櫓でしたが、二重櫓に改装したようです。
出丸の石垣と橋です。
橋と門です。
奥に隅櫓が見えます。
水口城の図です。
凸形をしています。
この出っ張った部分に櫓を作っています。
(続く)
隅櫓風の建物ですが、中は資料館です。
実際にはこの位置には櫓はありませんでした。
説明です。
水口城は、徳川家光が寛永11年(1634)に上洛の際の宿泊城として、築城しました。
実際に使われたのは一回のみでした。
その後は幕府の管理する「番城」となりました。
天和2年(1682)に加藤明友が2万石で入り、水口藩となりました。
その後一時鳥居氏が入りましたが、再び加藤氏が入り幕末を迎えました。
隅櫓は平成3年に建てられました。
市内の民家に移築されていた本丸乾矢倉を移築したそうです。
もともとは単層櫓でしたが、二重櫓に改装したようです。
出丸の石垣と橋です。
橋と門です。
奥に隅櫓が見えます。
水口城の図です。
凸形をしています。
この出っ張った部分に櫓を作っています。
(続く)